![]() 有限会社日本アクセスマネジメント・山崎理さん |
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不動産ファンド第一号(上)
不動産を証券化して販売するファンドの第一号を日本で設定したのが、日本アクセスマネジメント・代表取締役の山崎理(一九五五年生まれ)である。銀行危機が深まった一九九七年当時、日本の複雑な不動産取引の仕組みを、利回りというカタチにして外人や個人の投資家に分かりやすく説明する理論的背景を構築した。 現在では、多くのリートが東証に上場し、金融商品の一角を占めるにいたった。「小泉政権の五年間で一番大きな成果が、竹中大臣の思い切った不良債権処理であったのではないかと思う。あのままユックリやったのでは、どんどん不動産価格が下落する中で、不良債権発生の悪循環を止める事ができなかった。何とか日本の金融システムが崩壊の危機を免れた」と、一九九八年の金融危機を振り返る。 約三十年前、創設されたばかりの筑波大で経済学を学んでいたころ、山崎に西ドイツ領事館から通訳のアルバイトの依頼が来た。山崎が通訳を担当したのは、シェール西独大統領であった。幼少期をミュンヘンで過ごした山崎は、当時としては珍しい日本語とドイツ語の完全なバイリンガルであった。 しかも、物理学者であった父が、マックスプランクインステチュートで不確定性の原理を解明したハイゼンベルク博士の元で、研究していたためである。ちなみに、ハイゼンベルクの世界的名著『部分と全体』(みすず書房)は、その山崎和夫・京都大学名誉教授が翻訳している。 さて、この通訳のアルバイトがキッカケとなり、山崎は、経済調査担当のスタッフとして、神戸にあるドイツ総領事館に就職した。そして、西ドイツの要人に随伴して、霞が関や永田町も訪れた。六年にわたり、絶好調の日本経済の象徴として、トヨタの本社工場などにも何度も行き、また、山一証券経済研究所の大阪支所にも通い、経済レポートを西ドイツ本国に送ったりした。 待遇や仕事の中身に不満は全くなかった。しかし、「どんなに綿密なレポートを書いても、それがどう生かされたのか、具体的な結果としては、礼状以上の反応がこない。経済のことを書きながら、数字を残せないのが、歯がゆかった」と。 六年目、ついに決意し、自分の分析力が、現場で試される、証券会社への転職を決意。 山一証券本社に移り、当時はまだ国内の職種としては珍しかった、ファンドマネージャーをやる事になった。イギリスとオーストラリアの年金の運用業務を山一投資顧問が受注していたのだ。 一九八六年のプラザ合意の直後で、バブル経済がやってきた、まさにその時代であった。最初に任された資金は、七億円。バブル景気の追い風で、破格の運用実績をあげた。運用資金は、顧客の新規・追加資金も加えて五年間で百倍の六百億円程度に増えていた。そんな時、山崎の会社の電話番号を調べて、会いたいと言ってきたのが、ヘッドハンター達であった。 (花山 亘 つくばベンチャー協会事務局長、NPOつむぎつくば理事、敬称略) 不動産ファンド第一号(下)
現状に満足していた山崎ではあったが、 ヘッドハンターからお呼びがかかることが、 ファンドマネジャーの勲章とも言える状況があった。 「社内での影響力が増し、 課長の辞令をもらい、 現状に満足していたので、 転職するつもりも無かった」 が。 しかし、 ある日、 山崎の気持ちを揺すぶる提案が来た。 それは、 日本を含むアジア全域の株式市場に、 東京から投資を行う話がきたからである。 外資系金融機関のアジア向け投資の金融センターは、 主に香港やシンガポールが主流である。 ところが、東京にいながら、 これから急成長が予測されるNIESやASEANへの投資業務を担当できるというのだ。 そこで、 思い切ってシグナインベストメントのヘッドハントに応じたのである。 そして、 七年後、 山一証券が倒産するのである。 さて、 シグナインベストメントでは、 投資運用部長としてファンドマネジャー七人と親会社のシグナ保険が預かる保険料やアメリカの年金資金を中心に、 三千億円を運用した。 1%程度のブレは、 日常的である。 「毎日、 30億円程度、 損をしたり得をしたりする生活」 で、 刺激的な日々を送った。 「そのころ、 知り合ったアジアの上場企業の経営者や証券マンとの付き合いが、 今も続いており、 ビジネス上の大きな財産となっている」 という。 そんな時、 急激に下落した日本の不動産に投資したいが、 複雑でサッパリ分からないとの相談が、 外国証券のスタッフたちからしきりに舞い込んできた。 社内で議論しても、 やはり、 さまざまな制度でがんじがらめになっている日本の不動産への投資金融商品の組成は難しいとの結論に至った。 それならばと一念発起して、 自分で起業した。 親友となった海外の投資家たちが、 不良債権の山の中でひん死の状態になっている日本の不動産に投資できるようコンサルティングをやるための会社として、 日本アクセスマネッジメント社を設立するに至ったのだ。 時は、 経済危機真っただ中の一九九七年であった。 第一号のファンドを海外投資家の出資八億円程度で、 法体系が未整備の日本国内ではない第三国に設立。 都内の塩漬けの不動産を、 次々と買っていった。 その成功を見ていた外資系ファンドが、 再び山崎をヘッドハンティングしてきた。 「サラリーマンには、 もう戻りたくないということで、 クレディ・スイス証券プライベート・エクイティ部の顧問として、 週一回のみ宮仕えを続けている」 と。 クレディ・スイス社の山崎たちのチームで米国の巨大な年金資金の運用を任され、 不良債権となった都心のビル数十本に投資し再生させた。 だが、 都心の不良債権の処理は、 既に一巡したという。 最近では、 TXの開業で古巣のつくばからも、 不動産案件でチョクチョクお呼びがかかる。 自ら起こした、 日本アクセスマネジメント社では、 TX沿線で、 新たな不動産業務を模索しているという。 「不良債権の最終処理を終えた銀行が、 どのような物件に担保価値を認めるか。 その流動性を供給していくかが、 値上がりする不動産を決める。 復活した邦銀の貸出余力は巨大で、 不動産を含む国内融資だけでは収まらずに、 アメリカ、 中国、 アジアに手をひろげるはず。 特に経済規模の小さな東南アジア諸国には、 大きなインパクトを与えるだろう」 と、 山崎は予言する。 (花山 亘 つくばベンチャー協会事務局長、 NPOつむぎつくば理事、 敬称略) 【事業概要】東京都江戸川区東小岩4の9の3。電話03・5693・2662。1997年4月創業。資本金・980万円。日本での草分けとなる不動産ファンドを設定・運用する一方で、国内外の投資家向けに収益物件の売買仲介・買取・賃貸管理などに実績を残してきた。マンション一室から、東京都心部の一棟ものオフィスビルや首都圏の多層物流基地用地までを手がける。 http://ics.tokyo.zennichi.or.jp/members/75340 | ||
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