アイ・ティ・エイチ 代表取締役社長・磯崎寛也さん

人生変えた“歴史的悲劇”

NPO法人を設立し、新しい雇用のしくみを提案した磯崎さん
凄まじい衝撃に襲われ、この揺れは“核攻撃”だと確信した。マンションを飛び出してみると、地割れの向こう側で、新幹線も高速道路も崩れ落ちていた。西武百貨店神戸店の営業企画マネージャーとして閉店セールを仕切り、ホンの二日前に開店以来三年間の激務を終了したばかり。これから、どうしようか途方にくれながらも、「どうにでもなれ」と開き直りつつ、学生時代に読んだボリス・ヴィアンを読み直しながら夜更かしをした。一九九五年一月十七日午前五時四十六分、株式会社アイ・ティ・エイチ代表取締役社長・磯崎寛也(一九六五年生まれ)が遭遇した、十年前の“歴史的悲劇”の瞬間である。

必死で逃げ込んだ近所の小学校で、焚き火を囲んで聴いたラジオが、それが『阪神大震災』であったことを報じた。足元を、バーンと通り抜けていく余震。校庭の真中で恐怖の二夜を過ごした。現在、妻となった同僚と二人で決断、徒歩で東を目指した。波のようにアップダウンを繰り返す阪神鉄道線路上を、ゾンビのように歩き始めた。地獄絵図の中を歩き通し、電車の動いていた尼崎駅へなんとか到着。実家が京都の彼女と途中で別れ、乗り継いだ常磐線で、故郷の日立市に向かう。利根川を北に渡り、那珂川を超えたあたりで水戸芸術館のタワーが見えた時、クールな磯崎の目に涙が溢れ出して止まらなかった。

「実家に戻って家業を継ぐ事を、この時決めた」という磯崎は、しかし、早稲田で文学を志し、現代美術を専攻。卒論はマルセル・デュシャンで、西武百貨店本社の営業企画部へ就職。一方、家業は日立製作所と取引する重電機メーカー。このギャップが埋まるのか。

だが、磯崎は、この世の終わりを観ていた。都市幻想が崩れ、消費文明の限界を知った。「ある種の絶望感の中で、人間の原点に戻るしかなかった」。燃えカスとなった自分が戻るべき所は、日本の原点モノ作りの現場。工場では「コイル製作、配線、ボルト締め、品管、設計…」を。茨城大学のシステム工学の夜間コースでは、ゼロから“理系”を学んだ。

やっと慣れてきた五年目、社内のリストラをせざるを得なくなった。「切るぐらいなら、そのベテラン二十人を、俺に預けてくれ!相応しい仕事探してくるから」と“売り”歩いた。酒屋から弁護士事務所、化粧品会社のISO品質管理、ロジスティックス。逆に二十人では、人が足りなくなり、その茨城電機工業社の『更衣室』に、アイ・ティ・エイチ社を創業。

わずか五年間で、社員千人に急成長。理念として「ヒトが持っている、光り輝く部分みたいな所に、キチッと焦点を当てる事により、世の中も元気になる、本人も幸せになる」。フリーター現象は、一種の「社会的ストライキ」だと、磯崎は主張する。「フリーターに希望を持たせるような、明確な仕事を与えられる会社は、競争力がつく」と。

多くの失業者の悲鳴や悩みに対峙し、ままならない世の矛盾を強く感じていた。「地域に人と仕事を効率よくマッチングさせる仕組み」を求め、インターネットで求人サイトを立ち上げた。しかし、地方ではネットはビジネスにならない。「それでも続けてみよう」と、創業時で資金繰りの厳しい中「世のため人のため事業を継続すること」を自分に課した。

ある日、日立市の若手経営者の会議で、当時の県商工労働部長だった滝本徹に出会った。何かピピッと感じるものがあったという。「県内雇用を活性化させるため、ジョビジョバドットコムと県の雇用対策を連動させられないか?」滝本にメールを打った。彼の返事はこうだった。「県内の人材関連企業をまとめて、新しい雇用のしくみを提案したら?」それがきっかけとなり、つくば市にNPO雇用人材協会が設立されるまでは早かった。昨年、厚労省の委託事業でセミナーを実施し高く評価された。“言霊”にこだわり、いつも信念を唱えながら、無謀とも思われるチャレンジを続ける磯崎に、ビジネスと社会貢献の境界が無い。(花山亘 つくばベンチャー協会事務局長、NPOつむぎつくば理事、敬称略)

【会社概要】本社・日立市東大沼町1-14-33。電話0294・38・3805。2000年6月1日創業。資本金・2250万円。ITコンサルティング業、有料職業紹介業、人材派遣業、アウトソーシング業、ISOコンサルティング業、求人サイト『ジョビジョバドットコム』の運営。 株式会社アイ・ティ・エイチhttp://www.ith.ne.jp/、ジョビジョバドットコムhttp://www.jobi-joba.com、NPO法人雇用人材協会http://koyou-jinzai.org/

BACKHOME